特集: アノニマスポートレート

Anonymous Portrait

アノニマスポートレートとは何か?

アノニマスポートレートとは?

厳密に呼び方が定着しているわけではありませんが、顔全体、もしくは顔の一部を意図的に隠して撮影するポートレートを「アノニマスポートレート」(Anonymous Portrait)と呼びます。アノニマスとは「匿名」を意味しますが、人物の最も重要なアイデンティティーを示す「顔」を隠して撮影することで、匿名性を演出する写真が「アノニマスポートレート」です(モデルリリースのない通行人を路上スナップ的に撮影することを“アノニマスポートレート”と呼ぶこともあるようですがここでいう「アノニマスポートレート」とは異なります)。

写真史において顔を隠した撮り方がいつからどのように始まったかは詳細に調べてみる必要がありますが、おそらくシュルレアリスムの写真家(画家・彫刻家としても活躍)であるマン・レイあたりからではないかと思われます。マン・レイの1933年の写真では男性の顔の彫刻に手の影が落ちて顔半分に当たって顔を隠している写真が見られ、またエラ・レーヌという女性を撮った1947年の写真では、顔の半分が意図的に影で隠されています〔参照〕。マン・レイのセルフポートレートにも顔を暈した(ぶらして暈した)写真があるので、マン・レイや他のシュルレアリスムの写真家や画家あたりから調べてみると写真史におけるアノニマスポートレートの歴史が分かるかもしれません。例えば、シュルレアリスムの先駆となる「形而上学的絵画」にとりくんだ画家、デ・キリコは1916~18年に描かれた「不安を与えるミューズたち」という作品で顔の無い女神を描いています。デ・キリコに影響を受けたシュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットも1928年の「恋人たち」という作品で、白い布で顔を覆った匿名の男女二人がキスをしている姿を描いています〔参照〕。マグリットは特に1964年の「人の子」〔参照〕という作品で、顔を青林檎で隠した山高帽の男を描き、この絵は彼の代表作として広く知られるようになりました。マグリットの絵において、顔を隠すというモチーフは1928年の「恋人たち」あたりから始まり、彼の後期の絵画で頻繁に繰り返し登場し、マグリットは顔を隠した絵を描く画家として有名になりました。マグリットの絵に多くの顔を隠した人物が登場する理由を、編集者で評論家の山田五郎氏はYoutubeの中で「近代社会の中で生じる匿名性や画一化に対する不安や恐れ」をマグリットは強く感じていたからと述べています参照〕。第一次世界大戦後の急速な都市化と工業化を経て第二次世界大戦後に大規模に出現した大量消費社会と大衆化の進展によって、個々人の個性やアイデンティティーは相対化され弱まっていくことになりました。画一化された製品が大量につくられ、皆同じような服を着て、同じようなものを食べ、同じような行動をし、同じような考え方をする。マグリットはこのような大衆化社会に恐れを抱いたのです。 

ちなみに日本においては、マグリットをはじめシュルレアリスムから大きな影響を受けた写真家の植田正治が顔を隠した写真をいくつも撮影しています。例えば、「へのへのもへの」〔参照〕と題する1949年の写真では、へのへのもへじの絵が描かれた画用紙を顔の前で持ち、自分の顔を隠している少年を撮っています。同年の「後ろ向きの少女」という題の写真は文字通り顔の見えない少女の後ろ姿をクローズアップして撮った作品です。また、1948年の「子狐登場」〔参照〕と題する写真は、狐のお面をかぶった少年がジャンプしているところを撮っています〔植田正治の写真について『植田正治写真集:吹き抜ける風』(求龍堂 2006年)参照〕。植田正治は、マグリットの作品の中で頻繁にみられる「画一化」を象徴する衣装、山高帽とスーツの男性も好んで撮影しました。植田正治の代表作の一つ「パパとママとコドモたち」〔参照〕(1949年)や「本を持つボク」〔参照〕(1949年頃)、そして後期の傑作「砂丘モード」シリーズ〔参照〕(1983年)など、山高帽とスーツの男性のモチーフは、マグリット同様、植田正治が好んで作品に登場させたスタイルです。このことは、植田正治が大衆化や大衆社会に対して、マグリットと同じような問題意識を持っていたことを示唆しているかもしれません。

このように顔を隠した絵画や写真(アノニマスポートレート)が描かれた背景には、大量消費に基づく大衆化した社会の中で、画一化しながら個性やアイデンティティーを失っていくことに対する危惧や不安がありました。顔を隠すというポーズは、個性の消失の象徴であり、かつ画一化した社会から個性やアイデンティティーを奪われないようにする防御の姿勢であるようにもみえます。そして我々は、2000年以降の高度に情報化した社会において、さらに顔を隠す必要があるのでしょうか。

2000年以降、インターネットの普及によってさらに複雑な社会が出現しました。日本においては2007年に家庭でのインターネットの普及率は70%を超えました。2021年にはスマートフォンの世帯保有率が9割弱に達しています〔参考〕。日々のネット利用時間はほぼ右肩上がりで上昇し、2022年には平日のインターネット利用時間は(全世代平均)175分、休日には187分に及んでいます〔参照〕。Line、Youtube、X、Instagram、Facebook、TikTokなど、今やだれでも、好きなSNSにいくつでも登録でき、個人情報を発信し、顔写真に加工を加え、本当の情報やうその情報をやり取りし、発言を使い分け、他人に承認されることを欲し、本当は自分が何をやりたかったかなどすぐに忘れてしまうのです。

そうした高度に情報化した社会の中で、自己のアイデンティティーをめぐる状況は、マグリットがアノニマスポートレートを描いた時よりもさらに複雑になっています。マグリットがアノニマスポートレートを描いた時にはまだ、一人の人間に一つのアイデンティティーがあるということが想定されていましたが、現在の多元化した情報化社会にあっては、もはや一人の人間に一つのアイデンティティー(顔)があるという前提そのものを疑う必要がありそうです。あるいはもともとアイデンティティーなど観念論的な幻想の産物であったのかもしれませんし、情報化にさらされてすでに消失してしまっているのかもしれません。いずれにしても現在の社会において一つの顔=アイデンティティーをくっきりと描くことはもはや時代に即していない気がしてきました。

アノニマスポートレートの写真はこちらからご覧いただけます。

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